よりベターを目指すゲーム

風来のシレンはその場その場で判断を求められるゲームです。
敵に囲まれて、どの道具を使うのか。
殴られながら階段へ向かうのか。
重要なアイテムをここで使ってしまうか。

そのときの行動に正解はありません。
切り抜けられたら正解です。しかし、切り抜けられないときはそのまま死んでしまいますから、正解を選ぶほかありません。
ところが、その先を考えると、正解が不正解となることもあります。
先のことはわからないので、ここでの行為基準は正解とか不正解ではないのです。
その時できるよりよい行動を選ぶことしかできないのです。
つまり、風来のシレンとは、よりベターを目指すゲームなのです。


私たちが日常で何か選択を迫られるとき、そこに正解はありません。
どれがよりベターかというだけの違いです。
人生もまた、よりベターを目指すゲームなのです。

敵が目の前に1体。殴りあってたら、案外強くて、弟切草を使って安全策をとった。
ところが次のフロアでいきなり敵に囲まれてピンチになってしまった。
2ターンあればしのげる。しかし、今のHPでは2ターンしのぐことができない。
HPが満タンになるアイテムがあれば、2ターンしのぐことができます。
あのとき、弟切草を使わなければ……。
あのとき、アイテムに頼らず、後ろに下がってHPを回復しながら倒せば……そんな想いが脳裏を掠めます。
そう思っても、もう遅いのです。
あのとき、よりベターな方法をとらなかったがために、今困っているのです。
ベターとはそういうことです。
正解/不正解は、単発の問題です。
数学で(1)が不正解なのに、(2)が正解なんてありえません。
ところが、現実は(1)をいかにベターに解くかで次の問題の難しさが変わるのです。
英語の問題でわからないものがあった。わからないのですから、適当に勘でマークする他ありません。勘は勘でも、選択肢をよく見て、選択肢同士を吟味して勘で当ててしまう技術があります。所謂「例の方法」というやつです。ところが、この方法で10分も20分も使っていたのでは意味がありません。
わからない問題は1秒で適当にマークして、次の問題に挑戦する。
こういう考え方もあります。
どちらもベターな選択です。ここで問われているのは、どちらが正解かということではありません。どちらがよりベターなのかという問題です。
風来のシレンでは、プレイヤーは必ず明日に繋がるプレイをします。
私たちもまた明日に繋がるよりベターな選択をし続けなくてはならないのです。