情熱を試されている

本屋を歩いていると、気になる本と出くわすことがあります。
そもそもそういった本と出会うために本屋を徘徊するのですが、習慣になってしまうと意味もなく本屋に行ってしまう。そういうときに限って、おもしろそうな本が置いてある。それも平積みだ――!
本屋に長く通っていると、新作だから平積みなのか、その本屋がプッシュしているから平積みなのかなんとなくわかってくる。後者の場合はあたりの可能性が潜んでいる。
そんなときに限って、今月は金がないだとか、節約を誓ったばかりだとか、何らかの障害がある。特に、本屋が意図的に平積みされたものは、新作が出た場合、真っ先に元の棚に戻される。ましてやその本屋があまり行かない本屋であれば、別の本屋がその本が平積みにされているとは限らない。棚に戻された本はもう見つけられない。運よく見つけたとしてもおもしろそうと思えない。だから、見逃す。
もう二度と出会えないかもしれない本ともう二度と開けまいと誓った財布の紐。
おもしろそうな本の誘惑に耐えられるか、こういうシーンは皆さんもよくあるでしょう。
しかし、実際はまったくの逆なのです。
本の誘惑ではなく、そういった瞬間において、私たちはまさに試されている。本に対する情熱を試されているのです。誘惑に勝てないことが悪なのではなく、なんだかんだ理由をつけておもしろそうな本を見逃したことが、知識欲への冒涜なのです。
本に限らずあらゆる商品というのは、売っている値段よりも生産にかかったコストや労力の方がずっと大きいものです。特に本は著者の知識と経験と人生がつまっています。そもそも1000円,2000円という値段がありえないのです。定価でありながら、超お買い得品です。
そんなものが目の前にありながら、ただの1000円もだせない。
私の情熱はその程度だったのでしょうか。財布を握り締めながら、欲しい本を睨みつけているまさにそのとき、私たちは情熱を試されているのです。