悪いニュースといいニュース

外国の映画を見ていますと、こんなシーンをよくみかけます。
「悪いニュースといいニュースがある。どっちから話したほうがいい?」

韓国ドラマで『私の名前はキムサムスン』という作品があります。これにでてくるヒーロー役の男がむちゃくちゃカッコイイ!
そんなことはどうでもいいとして、どんな話かと言いますと、太ったパティシエの主人公が恋人に捨てられるところから物語ははじまります。その夜に、大金持ちの性格の悪い男(これがヒーロー役)と知り合い、彼の店で働くことになります。ところが彼には永遠の愛を誓った美人の恋人(韓国人)がアメリカにいるのですが、その恋人を密かに思っているアメリカのイケメン(ヒーローとは違い性格がいい)がいます。このような国境を越えた複雑錯綜とした人間関係のもと、男同士が時には殴り合うというベタなドラマが展開されていくわけです。
それで、アメリカ人のイケメンが、美人の恋人といい感じになっている時にこんなやりとりがあります。
かなり後半なので、ストーリーをここで簡単に説明するわけにはいかないのですが――
「悪いニュースといいニュースが…(略)」
「悪いしらせから聞きたいわ」と韓国美人。このようなとき、悪いほうから聞くのが人間というものなのです。
アメリカ人は言います。「――キミと離れなきゃいけない」とまるで別れ話のような言い回しです。
「ふぅん」と韓国美人。「それでいいほうは?」と先を促します。
先ほどとは打ってかわった晴れ晴れとした顔で、「国境なき医師団の一人に選ばれたんだ!」とアメリカ人。
「きゃあ!」と韓国人女(彼女も女子医学生)。喜びをともに分かち合うわけです。
ここで注目したいというのは、実はニュースが二つあるのではなく、国境なき医師団の一人に選ばれたという事実が二通りの解釈をして二度も言っているわけです。考えようによっては嫌な男です。(cf.一緒に浪人をしていた学生同士の会話で同じようなものを想起せよ)
ですが、ここでこのアメリカ人がいい男なのか、嫌味な奴なのかは問題にはなりません。
重要なのは、物事は何でも二通りの側面があるということです。
東大に受かった学生には、東大に受かったという事実の裏に、浪人していった友達と離れ離れになるという悲しい側面もあります。特に進学校であれば、ほとんどの学生は浪人をします。現在では、一浪程度であれば、もはや高校4年生のようなノリです。ですから、一人高校卒業直後に大学へ進学してしまうことは同級生の友達と一気に別世界に行くことを意味します。
一方で、浪人が決まった学生はどうでしょうか。浪人というのは一般に喜ぶべき事実ではありません。先ほど高校4年生に過ぎないといいましたが、浪人生というのは高校生のようにボーっと朝から夕過ぎまで座っていれば卒業できるのとは違い、どこかに合格するまで終わりはありません。広漠とした果てしない道のりがはじまってしまったのです。約束の地へたどり着くのに、モーセは40年砂漠をさまよいました。もしかしたら、モーセのように志望校へたどり着くのに40年かかってしまうかもしれないのです。そこにあるのはただ不安です。無限の一時も止むことがなく決して解消されることのない不安が浪人生を襲います。しかし、一方で、予備校もまた学校です。大きな予備校は学校法人であり、れっきとした学校です。学校には人が、つまり潜在的な友達がいます。浪人という事実が決定した瞬間は暗いものかもしれませんが、新しい浪人生活がまさにはじまろうとしているときは、ほんの少しの不安と抑えきれない大きな希望で満たされているのではないでしょうか。
ですから、希望の大学の合格発表に自分の学校が見つけられず、家でその報告をしなければならないとき、こう言えばいいです。
「お母さん、来年友達が増えて、もっといい大学にいけるチャンスを得たよ。このチャンスはほんの1年ばかりの時間と、ただでさえ少ないお父さんの年収を家族の人数で割って余るほどほどのお金で買えるらしい。私は時間を出すから、お母さんはお金をだしておくれ――」