他人に迷惑をかけられる

迷惑行為というのは多く、気付かないところで行われます。誰も迷惑をかけようと思って迷惑をかけているのではありません。これくらいいいだろうという慢心や、あるいは迷惑をまるで意図せずにした行為が迷惑行為となるのです。
昨日は、他人の迷惑を許容しようといいました。
許容しようとすると、様々な迷惑行為に気付きます。様々な迷惑行為に気付くと、その中には自分がやっているものもあるかもしれません。気付けば、少なくとも人がいる場所では、少なくともそれをやらずにはいられないような状況ではない限り、その行為をしないようになります。

他人に、キミのそれは迷惑だからやめた方がいいよと言われるとムカつきます。激しい蹴りを連続で浴びせたくなります。満足そうに注意しているその顔に頭突きをかましたくなります。その人は注意という迷惑行為に気付いていないのです。ああ、不快。注意というのは不快きわまりない行為です。
時に、若者を注意した人間が成敗をされたというニュースを私たちは聞きます。そしてコメンテーターは言います。「近頃の若者は何を考えているのかわからない」――と。しかし、実際に自分が注意されたとしたら、「何を考えているのかわからない若者」の気持ちが痛いほどわかるのではないでしょうか。注意されるというのは実に腹立たしい行為です。しかし、注意されなくては迷惑をかけっ放しです。できることなら、人に迷惑をかけたくない。しかし、注意をされるのは反吐が出るほど不快です。思わず逆上しています。気付けばあたりが血の海になっています。先ほどまで私を注意していた老紳士の肢体が曲がってはならない方向へ曲げられ目の前に転がっています。
注意というのは「正しい」行為であるがゆえに、このようなジレンマを抱えます。

しかし、もう大丈夫です。自分に対する他人の迷惑行為ならば受け入れられます。なぜなら、その迷惑行為の主体は私たちではありません。それゆえ、私たちには過失も責任ありません。迷惑行為に気付いてからその迷惑行為を一度たりとも行っていないどころか、むしろたった今その迷惑限りない行為の被害に遭っているのにも関わらず、私たちは――実に驚くべきことに――寛容の精神を保ち続けているのです。その時、私たちは痴漢に遭ったと思って振り向いたら愛しのあの人であったときのような安心を伴いながら、自分の迷惑行為をやめようと思うことができるのです。

他人の迷惑を受けたときに、安心を伴いながら自分のためになるという奇跡が生じます。