真実を話す情熱を

歳をとると感動がなくなっていきます。いろんなことを知ってしまっているので、何も目新しくないのです。
ですが、私はそれを大した問題だとは思いません。感動しないものは感動しないのです。
それよりも問題なのは、感動をしてもいないのに、さも感動したかのように振る舞うことです。もっといえばそのように振る舞わなくてはならないその環境であり世間です。
フランスに行ってエッフェル塔をみてきた。いざ行ってみると、なんてことはない普通の塔なのです。そりゃあそうですよ。大昔に出来た塔が、現代に生きる私たちに感銘をもたらすということがおかしなことなのです。エッフェル塔を見て感動するには、エッフェル塔の背後にあるフランス革命だとかそういうものを感じ取らなくてはなりません。あるいは建築に幾許かの知識や興味がないといけません。ところが、とりあえずヨーロッパに行ってみようかという人が、ちょっと変わった形の電柱を見て感動するというのはいかにもおかしな話です。ところが、実際に旅行で行くと、まわりがすごいだのなんだの歓声をあげている。ここで、つまらないからDSをやっているというのが許されるのは小学生までです。否、小学生ですら許されません。みんなが感動するものは、一緒に感動しなくてはならないのです。このような一般原則に従って、とりあえず感動してみます。旅行から帰っても、フランスに行ったけれど、フランスパンは固いわ、エッフェル塔見学は退屈だわ、名画を見たものの学生時代に何も暗記してないものだから、有名らしい画家の作品を見てもさっぱりわからないで散々だった――というわけにはいきません。名画は突っ込まれると怪しいし、食べ物の話というのも芸がありません。そこで、エッフェル塔がよかったと言ってみる。何がよかったのなんて言われようものなら、「言葉にならない」(笑)。

これじゃあ聞いてる方もつまらないわけです。聞いてる方も、海外旅行から帰ってきた人に、「知識もないのに、フランスに行ったりして、さぞつまらなかったでしょう?」なんて言うわけにはいきませんから、「どうだった? おもしろかった?」と聞くわけです。というか、聞かねばならない。
こうして、お互い情熱のない形式的な会話が延々と続くのです。実につまらない。

このような会話は、海外旅行だけでなく、留学や上京、就職、結婚式など様々なところで見受けられます。
一番の原因は誰が規定したわけでもない常識のルールに従い、言いたいことが言えないことにあります。
思いきって、何もわからなかったと言ってみましょう。会話全体が急に情熱を帯びた楽しいものになるはずです。
「なんかやたら、赤白青のマークを見て、妙に理容室が多いなあって思ったら、あれフランスの国旗なのね。帰ってから知ったよ」
こういう人の方が、エッフェル塔をみて「言葉にならなかった」などという人よりもずっと楽しいはずです。
いいんですよ、ブランド物以外何も興味ないからエッフェル塔なんか見なかったよって。ヴィトン本店の品ぞろえに感動したとかそっちの方がずっといい。私の知人もイタリアのグッチに行ったら、警備員まで全身グッチで感動したと言ってましたが、そういう感動の方が、本人の興奮が伝わってきますから、聞いていておもしろい。
余談ですが、私の記憶が正しければ、ルイ・ヴィトンの本店はたしかエッフェル塔の真下にありますから、エッフェル塔付近にはいかなくてはならないのですが(笑)。

いや、エッフェル塔に本当に感動したのであれば、いくらでもその感動を話せばいいんですよ。その情熱は必ず伝わりますから。

あ、それから私はエッフェル塔を見たことがあるわけではありませんから、悪しからず。

というわけで、世間に負けず、本当のことを話そう。
ありがとうございました。